47歳になったいまも
あの時の風の匂いだけは
まだ嘘をつかない。
あの場所のタイルは少し濡れていて、
あの頃と同じ蛍光灯が
ひとつ切れたまま揺れている。
信号の青がやけに冷たく見える夜
僕はいつものように自販機の前に立つ。
コインを落とす音が、
あの日と同じリズムで胸の奥を叩いた。
19歳の夏
白いワンピースの彼女は
麦わら帽子をかぶって細い手を振っていた。
コンビニの袋をぶら下げて。
中にはアイスコーヒーと、僕の煙草。
マイルドセブンという銘柄は
とっくの昔に廃盤になってメビウスに変わった。
僕の青春も、同じように廃盤になった。
あれから、何も更新されていない。
僕の中ではまだ十九歳のまま
笑って、息をして
まばたきの隙間に立っている。
夜、洗面所の鏡を見ると
たまに後ろに、あいつがいる。
焦点が合う前に消える。
消えるたびに笑う。
「まだいたのか」って。
誰にも話したことはない。
でも、毎年七月、郵便受けに手紙が届く。
差出人はなし。消印は“あの町”。
文字は、あいつの筆跡によく似ている。
内容はいつも、たった一行。
「今年も夏が来たね。覚えてる?」
——覚えてるよ。
お前が消えた夏も
お前の声も、全部。
その手紙を開けるたび、
世界の色が少しだけ濃くなる。
まるであいつが
その行間にまだ住んでいるみたいに。
この年になってようやくわかった。
時間ってのは進むもんじゃなくて、
同じ場所を静かに擦り減らしていくだけなんだ。
擦り切れた記憶の上で、
まだあいつに手を振っている。
あの蛍光灯の下で、
誰もいない夜の空気に向かって。
車を降りる時につぶやいた言葉。
車を降りるまでの数秒間。
ドアを閉めたあとの後ろ姿。
流れていたあの曲。
いつもと同じ夏の風が吹いていた。
頬に触れる感触が、妙に温かかった。
手を伸ばす。
何も掴めない。
それでも
指先に少しだけチョコの匂いが残った。
——ウイスキーボンボンだ。
あの日、あいつが笑いながら渡してきたやつ。
「これ、ちょっと大人の味だよ」
そう言って
ひと粒だけ僕の口に放り込んだ。
子供の俺は
ウイスキーの苦みを“死の味”だと思っていた。
それを今の舌で確かめてみたくなる。
夜風が吹いて、手紙がひとつ飛んだ。
追いかけると、電柱の陰に女が立っていた。
麦わら帽子。
コンビニの袋。
……中には、アイスコーヒーと煙草。
「今年も冬が来たね」
その声を、俺は確かに聞いた。
けれど、次の瞬間にはもう
誰もいなかった。
手紙だけが足元に落ちている。
封はされていなかった。
中には、短い一文。
「今年は、あなたが出す番だよ」
僕は笑った。
——ようやく、届いた。
蛍光灯が一瞬だけ光を強め、
そのあと、完全に切れた。
暗闇の中で、僕は舌の上にボンボンを転がした。
マグマみたいなウイスキーが溶けて
遠い昔の海が、喉の奥でざわめいた。
そして、気づく。
もう誰にも宛てて手紙なんか書けないことに。
だって
その“誰か”は
もう僕の中にしかいないのだから...
僕もメビウスという銘柄に変わったのだ──
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