「だから、彼女候補とかそういうんじゃないって。え?街で携帯落としてさ、それを拾ってくれたのが、キャバ嬢だったってワケ」
八代亜紀雄は、携帯電話を肩と頬で挟みながら、ブロンズの蛇口から注ぎ出る水で手を洗った。
「そう...拾って貰ったんだから、お礼くらいはしなきゃならないだろう?一応はさ。でもバカな女でさ、会って三十分もしないうちに全く会話が噛み合わなくなってさ、トイレに一時避難しようとした矢先に、お前からの電話に助けられた訳だよ。え?それで?...だからそれだけだって...」
ペーパータオルで濡れた手を器用に拭き取ると大理石調のダストボックスにそれを放った。
「俺だってもう帰りたいよ..ああ...ん?そっか、おお..わかった、じゃあまた連絡するわ、お前も時々、顔出せよ」
電話を切ると携帯電話をポケットに滑り込ませた。
あらゆる高級リストランテを網羅している亜紀雄でも、壁全面がミロのビーナスなんて豪勢なトイレは初めてだった。
巨大な鏡に映る亜紀雄は、自分が思っているよりも酷く疲れ切っていた。溜め息混じりの口笛を吹きながらトイレを後にした。
快晴と報じられていた天気予報は、突然のゲリラ豪雨に裏切られ、本日オープンした《リストランテ・ヴェルデ》の招待客も少なめだった。
席に戻ると、宮下春菜はプリモピアットの『きんき』に舌鼓を打っていた。亜紀雄は料理に手は付けず、窓外をぼんやりと見つめながら、招待状の使い道を心底後悔した。カポナータのスープもすっかりと冷めていた。
その時、テーブルの横を通り過ぎたホール係を亜紀雄は呼び止めた。
「魚介にあうbiancoを一杯欲しい」
そう告げると男はニコッと微笑み、奥へと消えた。亜紀雄は、また外の夜景に視線を投げた。
「携帯拾っただけなのに、こんな高級なレストランに誘ってもらって。亜紀雄くん、ほんとにありがとう」
宮下春菜は、両方の口角を無理にへし上げて、アヒルの様な顔でエヘヘと笑って首をかしげた。
アヒルによる命懸けの好感度捏造劇は、ガラスに映る亜紀雄に届いてはいなかった。窓を伝う雨粒が亜紀雄を泣いているように見せた。
春菜は、いつまでも外を見ている亜紀雄の注意を引きたいのか、ワイングラスに映る湾曲したアヒル顔と、窓ガラスに映り込む亜紀雄とを、空中でぴったりと重なり合わせて、おどけて見せている。
そこに、背の高い紳士が、テーブルの横にカートをぴったりとつけた。 亜紀雄は、それに気付くと真っ正面に座り直した。金髪の紳士はセコンドピアットをテーブルに並べながら巻き舌の早口言葉を投げかけ、亜紀雄はそれに、うんうんと応えた。春菜の眼前に大きな肉塊が載った皿が置かれた。
「うわ!お肉だ。凄いね亜紀雄くん。こんなの一度食べてみたかったんだ。いっただきま〜す」
両手を合わせて拝む素振りをする春菜に、金髪紳士は大袈裟なリアクションをすると、奥へと消えていった。
春菜は、危なっかしい手つきで肉片をアヒル口へと運んだ。
「このお肉めっちゃ、やわかくて美味しいね」
「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ」
「ビス..フィ...レンティ?」
「キアニーナ牛を使ったフィレンツェの高級ステーキだよ」
「すごーい!よくわかんないけど、ハンパなくヤバいステーキだってことはよくわかった」
「そっか。それはよかった..」
先ほど頼んでいた亜紀雄の白ワインもテーブルに運ばれてきた。
「いつもこんな豪勢なものばっかり食べてるんだ」
「いや、いつもは自炊で質素なものばかりだよ。身体も鍛えているから食生活も考えないとね。三十路も目前となると、落ちるものも落ちなくなるし」
エルミタージュをヤケ酒気味に半分くらい飲み干した。
「亜紀雄くんが、あの八代興業の息子さんだなんてさ、春菜びっくりした。お屋敷では毎日こんな料理が出てくるんでしょ?料理人とか召使いさんとかがいてさ」
「卵かけご飯とか。納豆とか..食べるよ」
「え〜ほんと!?」
「そんなに意外?」
「意外ですよ〜それは!でも、女子目線から見ると《ギャップ萌え》かも」
「どういうこと?」
「一見怖そうなのに可愛いところがあったりとか?ひ弱そうな男が一瞬見せるワイルドさとか。あるじゃん?」
「えっ?よくわからない...つまり想定外のものだと..良いってこと?」
「そうていがい?んんん..」
春菜は両目を天井に向けて、顎を指でなぞりながら、なにかを考えてみせたが、最初からなにもなかった。
「だって屋敷に住んでる人間が納豆を食べたら拍手喝采なんだろ?宇宙人かなにかに見えるんだろ?」
「いや、違うよ。なんか、あるやん?カワイイっていうかさ、なんていうか、男をギュってしたくなる瞬間って...そういうギャップね!」
「《ギャップ》って言葉を《想定外の仕掛け》っていう意味で使ってんの?」
「いや、そうではないよきっと。もっとふつーにさぁ..」
亜紀雄は左手首に光るパテックフィリップの文字盤をチラっと見て、シャツの一番上のボタンを開けた。
「なんか亜紀雄くんって、ちょっと意地悪だよね。よく、そういうお客さんいるけど、女の子達から嫌われているよ〜」
「は?誰が?ぼくがキャバクラに行くの?僕が普通に生きていて、君のような人たちのところへ行く機会があるとでも??」
「いや、行くことはないだろうけどさ、そんなん言われたら春菜なにも言えないやん、おっかない先生みたいに言われるとさぁ」
「あのさ、その時々出る関西弁みたいなの..なに?西日本出身の人?」
「いや、ちがうけど」
「エセ..関西弁ってやつ?」
「そんなんじゃないよ、え?だって、みんなふつうに言わない??」
「ネイティヴな関西弁の人が、凄い不快なんだってさ。そういうファッション感覚のエセ関西弁を見ると」
「え〜関西のお客さんもいるけど誰にもそんなん言われたことないけどぉ」
「幸せだね..」
「うん!幸せ。今日だってさ、このレストランだって、誰でも入れる訳じゃないんでしょ?招待状を持っている人しか」
「親父が..会長が二枚くれたからさ。携帯拾ってくれたお礼のつもりだけど..」
「今年はクリスマスが日曜日だったでしょ?昨日。そして今日が26日。ワタシの23回目の誕生日!」
「マジで!?そうなの?今日って誕生日だったんだ!偶然だね」
「そう、亜紀雄くんからのサプライズやん」
「いやいやいや、待って!そこで言うサプライズってさ、驚かそうって意図があってのサプライズなんだよね?俺、ぜんっぜん意図ないから。おめでとうとは思うけど、その偶然をサプライズとは言わせないから」
「ええ!だって誘ってくれたのが運命的に春菜の誕生日だったんだもん。サプライズでええやん。なにがダメなの?」
「ダメではないよ、ただ、ただね、俺が姑息な猿芝居を打って、商売女を喜ばせたみたいになってるじゃないか」
「さっきから、言ってること難しくてわかんない!」
「兎に角、ギャップだのサプライズたのもう言わないでくれ、そういうの大っ嫌いなんだ」
いつのまにか春菜の顔からアヒルが消えていた。
「ごちそうになった立場で言うのもなんだけど...春菜もう帰って良いかな?」
「俺もそろそろ帰ろうと思ってたとこだよ」
「せっかくイブとクリスマスを楽しく過ごせて、誕生日がこんな日になっちゃうなんてさ」
「君だって、俺が金持ちじゃなかったら付いてきてなかったろう?」
「・・・・」
「ほらな」
亜紀雄は苛立ちをどこにぶつけていいかわからなかった。
「..イブだのクリスマスだのって首から十字架までぶら下げちゃってさ、君は信心深きクリスチャンなのかい?」
「え?宗教?やめて!気持ち悪い」
「気持ちわるいのか?おや?さっき両手を合わせて〔いただきます〕って言ってたよな?」
「え?だってそれは一般常識っていうか...マナーでしょ?」
「マナー?マナーをご存知で?」
「もういい..」
「君、さっきからパスタをフォークでクルクルとスプーン上で回してたけどさ、それ、マナー違反だから。それ、子供がやる事だから、他所ではやらないほうがいいよ」
「だからもういいって..」
「宗教が気持ち悪い?クリスマスだと騒いたと思えば、お正月だと初詣に神社に行き、バレンタインだとキリスト教会に一切関係の無いチョコレートを義理だ本命だって騒いで、年二回の彼岸は」
「やめて!ワタシが悪かったよ。ほんと、もう帰ろう?」
亜紀雄は残ったエルミタージュを一息に飲み干した。
「とにかく携帯電話、拾ってくれてありがとう。もう二度会わないだろうけど、世の中には色々な人間がいるんだって勉強になったよ。関わっちゃいけない人種がいるって事も」
立ち上がった亜紀雄は悪酔いし始めていた。
「なによ、何様よ。そんなに金持ちが偉いん?」
「あーもういい、そのエセ関西弁!頭悪そうな英単語!!うんざりなんだよ!!!」
亜紀雄はナプキンを春菜の顔に投げつけると、急ぎ足で出口に向かった。
「お帰りですか?」
キャッシャーに貴婦人が背筋をピンと伸ばして立っている。
「お会計してください」
「お代は頂いております」
「え??」
「代済みでございます」
あのガキ...
亜紀雄は踵を返すと、春菜を置き去りにしたテーブルに向かった。
「トイレに行っている間にか?あの小娘が!ナメた真似しやがって」
テーブルに戻ると、春菜がバッグを持ち、今に立ち上がろうとしていたところだった。
「おいクソガキが!恥かかせやがって」
「亜紀雄!!」
??
「え?」
背後から野太い声がした。
振り返ると、そこには
八代興業会長 八代真太郎が立っていた。
「会長..あ!なんだよぉ。オヤジかよ!金払ってくれたのは。てっきり..」
「亜紀雄、お前は金を払う必要など無いのだ」
「ど、どういうこと?」
「今日からここ、リストランテ・ヴェルデはお前の店だ。父親からのささやかなクリスマスプレゼントだ」
「オヤジ!めっちゃサプライズやん!!」
12月26日
聖ステファノの日
「見よ、私は戸の外に立って、叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその中に入って、彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであろう。勝利を得る者には、私と共に私の座につかせよう」
(ヨハネ黙示録3章20~21節)
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